大聖寺商工振興会とは、加賀市大聖寺地区の商工業者を中心とする団体で、現在150店の事業所が加盟しております。

まいどさん!大聖寺【大聖寺商工振興会】

大聖寺のみどころ

加賀市中央公園

加賀市の中央に位置し、緑豊かな加賀平野、霊峰白山を一望できる地にあります。
施設は、レクリエーションゾーン、歴史民族ゾーン、運動ゾーンの三つに分かれおり、レクリエーションゾーンには、芝生広場、野外音楽堂、彫刻の森などの施設があり、市民の憩いの場になっています。

歴史民族ゾーンには、縄文時代の竪穴式住居や弥生時代の高床式倉庫など四棟を復元し、さらに白山麓の焼畑農耕生活の形態を知るため、山村民家や水車小屋、炭焼窯などが復元されています。

運動ゾーンには、スポーツセンター、体育館、屋内プール、屋外プール、相撲場、陸上競技場、テニスコートなどの施設があります。

 

加賀神明宮

加賀神明宮は昭和34年の改称以前は山下神社と称し、江戸時代には神明宮と称していました。

旧縣社で祭神は天照大神です。現拝殿は1824年再建の棟札があり、南の山上には白山宮が鎮座しています。

「天保由緒書」には神明宮、白山宮は往古より大聖寺惣鎮守で神明宮はもと城下山田町に鎮座していました。

地名は伊勢神宮鎮座地山田に因み神明屋敷跡もあります。
「寛永由緒書」によれば1616年に現在地に移り金沢藩より社領を寄進されています。

白山宮は1642年大聖寺初代藩主前田利治より社領を寄進され1652年社殿を再建、棟札には「大勝寺氏神」と記されています。

 

加賀大聖寺  山ノ下寺院群

加賀大聖寺  山ノ下寺院群大聖寺には隣の越前との国境付近であったところに、大聖寺藩が意識的に寺社を集めたと言われる場所があります。

山の下寺院群(やまのしたじいんぐん)と呼ばれ、7寺院、1神社が並んでいます。

実性院(じっしょういん)・蓮光寺(れんこうじ)・久法寺(きゅうほうじ)・全昌寺(ぜんしょうじ)・正覚寺(しょうがくじ)・宗寿寺(そうじゅじ)・本光寺(ほんこうじ)・神明宮(しんめいぐう)

浄土真宗の寺は城下の町中に、曹洞宗、日蓮宗、法華宗、浄土宗の寺はこの通りに移されました。

熊坂川の桜並木

延長約1㎞に渡って約200本の桜が咲き乱れます。

開花中の夜間ははぼんぼりも灯され、しっとりと花見が楽しめます。

近くには、山の下寺院群・石川県九谷焼美術館・深田久弥山の文化館・江沼神社・長流亭などの見どころもあります。

 

江沼神社 長流亭

大聖寺藩主の休息所として宝永6年(1709)に上棟、藩邸の庭園の一隅に大聖寺川を臨むように建築された遠州好みといわれる亭舎です。

当初は「川端御亭」と呼ばれていたが後に利直の雅名からとって「長流亭」と称されました。

昭和25年文化財保護法の施行により重要文化財に改称されました。

建立から280有余年の今日も江沼神社の西北隅に位置し、旧大聖寺川の流れに江戸時代中期の四柱造りのおちついた姿を写しています。

 

江沼神社

宝永元年(1704年)4月に大聖寺藩三代藩主前田利直邸内に前田家遠祖の菅原道真公の霊を祀る天満天神社を建立したのがはじめとされ、藩祖前田利治公をお祀りした松嶋神社が明治10年に江沼神社と改称、同12年天満天神社を合祀、同16年に県社に昇格しました。

境内は旧藩邸の一部で旧観を残し、注目すべき武家庭園として市の文化財に指定されています。

11月の紅葉時には多くの市民が散策に訪れます。
また正月には三社参りの風習から参拝者も多くいます。

このほか、重要文化財長流亭、深田久弥文学碑、梅花庵(公均の間)、竹径館(第十四代藩主の居館)等歴史的、文化的なものが多く残っています。

 

鹿島の森

北側は大聖寺川河口に、南西側は福井県の北潟湖に臨む陸地続きの小島です。
標高30m、周囲600mで総面積は約3ha。南北に長く円阜状をなしたほぼ楕円形の樹叢です。

古くは天台宗の霊場として、また江戸時代は大聖寺初代藩主前田利治が萬宝院と称する法華宗の道場として使ったため、鹿島の森(社叢)は数百年斧を入れることがなかったと伝えられています。

タブ・スダジイ・ヤブニッケイなどの常緑広葉樹林がおおい、樹下にはカラタチバナ・べニシダ・ムラサキシキブなどが自生し、動物ではツルガマイマイ・アカテガニなどがいます。
加賀における唯一の暖地性植物による原生林です。

この鹿島の森については、古い文献にも残っています。
「三壺記」によれば、「吉崎の鹿島山、年々林木生い茂り無雙の景なりけるを、越前の者伐絶す。尊氏将軍の御時、加賀越前の両国加島の論地ある時、越前の申分に、加賀鹿島の儀につき申し上る由、伝奏の前にて申しければ、則ち、加賀の鹿島たるべき旨勅旨を蒙るといい伝えふ。」と記され、加賀領の根拠となった伝えてられています。

 

実性院

通称「萩の寺」として親しまれている加賀曹洞宗の寺院です。

大聖寺初代藩主前田利治公の戒名『実性院殿機雲宗用大居士』に因んで実性院と称し、大聖寺藩歴代藩主(初代~14代)のお墓とお位牌は重要文化財級であります。

 

深田久弥 山の文化館

加賀市大聖寺が生んだ山の文学者、深田久弥の「日本百名山」をはじめとする山の文学、小説、ヒマラヤ研究などについての、深田久弥ゆかりの品々や資料を展示すると共に、深田久弥の自然に対する考え方、感じ方を伝える場であり、山や自然に心寄せる人々の交流の場であり、また、山の情報収集と発信の場でもありたいと考えています。

また、この館は明治期に建てられた、懐かしい建物で、樹齢650年と言われるイチョウなどの巨木に囲まれた、心和む雰囲気の中にあります。

 

菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)

御祭神は日子穂穂出見命(ヒコホホデミノミコト)・豊玉毘賣命(トヨタマヒメノミコト)・鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の御三神で、千四百年の歴史を有する古社です。

朝廷、前田家をはじめとする多くの崇敬が篤く多くの寄進を受けています。

毎年2月10日に行われる「御願神事 (ごんがんしんじ)」は、俗に竹割祭りとも言われ若衆が数百本の青竹を叩き割る勇壮な神事です。

夏の大祭「天神講」(7月24日~26日)には、お祓いの特殊神事が毎日行われ蝶の舞と呼ばれる珍しい稚児舞を見ることができます。

 

石川県九谷焼美術館

JR大聖寺駅のほど近く、「古九谷の杜親水公園」の一角に建つ、九谷焼をテーマにした美術館です。

青手、色絵五彩手、赤絵金襴手と呼ばれる上絵付けの三様式にあわせて、それぞれ趣向を凝らした展示室に作品を並べ、350年もの歴史を持つ九谷焼の魅力を紹介しています。

そのほか館内には、全国各地に所蔵されている九谷焼の名品を高精細画像で鑑賞できるデジタルライブラリーや、大型ディスプレイで九谷焼の歴史を学べるデジタルギャラリー、喫茶コーナー「茶房古九谷」、ミュージアムショップなども設けています。

 

全昌寺

熊谷山全昌寺は、大聖寺城主山口玄蕃頭宗永公の菩提寺で、金沢藩及び大聖寺藩の奥女中、武士、町人等の寄進により、慶応3年(1867)に完成したものです。

京都の仏工山本茂祐の作で、釈迦三尊、四天王、十大弟子、五百羅漢の総計517体の仏像が完全に具備し、仏工の仕様書、寄進台帳が現存しています。

元禄2年(1689)8月、奥の細道の行脚の折り、芭蕉と曽良がわらじをぬぎ一泊、二人が宿泊した部屋が復元され、境内には句碑もあります。

寺宝には兆殿司の作と伝えられる絹本著色釈迦三尊十羅刹女図、太閤秀吉の朱印状、杉風作の芭蕉木像などがあり、西国三十三観音像もまつられています。

 

蘇梁館

蘇梁館は、NPO法人加賀国際交流会たぶんかネット加賀が管理しております。

江戸末期から明治期にかけて活躍した北前船の中でも、大きな勢力をほこっていた久保彦兵衛家の主屋が移築復元され、梁を蘇らせたことで蘇梁館の名が付けられました。

見学は無料ですが、地域の交流の場として部屋をご利用いただけます。

 

大聖寺城址(錦城山)

大聖寺市街地の西端、通称錦城山にある城跡で、藩政期には古城山といわれています。

南北朝時代の『太平記』が初見で、その頃の城跡は錦城山背後の津葉城であったといわれています。以後度々合戦の舞台となりましたが、この地が水陸交通の要衝であり越前国境にも近く、標高約63mの里山でありながら南・北・東の斜面は急で、天険の要害をなしているなど、重要な軍事拠点であったと見られています。戦国末期に至って加賀の一向一揆の拠点となり、越前朝倉氏との激しい攻防戦が当城を中心として繰り広げられました。
やがて織田信長による一向一揆制圧の後、天下の覇者となった羽柴秀吉はこの地を丹羽長秀に与え、その与力であった溝口定勝(秀勝)が四万四千石で大聖寺城主となりました。
現在残る縄張りの原型はこの頃構えられたものと推定されています。

在城15年で越後国新発田へ転封した後、小早川秀秋の家臣であった山口玄蕃頭宗永が七万石で入城しましたが、2年足らずの慶長五年(1600)前田利長に攻められ、落城しました。
以後、前田方の重要な抑えとして修築され城代を置いたものの、15年後の元和元年、『一国一城令』によって廃城となりました。

大聖寺藩分封の際にも再建されることなく、麓に藩邸を構えるに止まりました。

藩政期はお止め山となっていたため保存状態は極めて良好で、各曲輪の虎口形態や本丸の櫓台・大土塁等に堅固な防御の工夫が凝らされていることが良く理解できます。

近年実施された踏査で、かなり複雑な構造をした天守相当の本丸櫓があったことが判明し、その櫓台や馬出し部分に石垣があったことも確認されました。

織豊時代の領主本城としては県内唯一の遺存例であり、織豊系城郭の発達過程や地方伝播を知る上で、貴重な城跡となっています。

 

大聖寺川流し舟

城下町の面影を残す加賀市大聖寺に流れる旧大聖寺川を屋形舟でめぐります。

所要時間は約40分ほど。

船頭さんによる手こぎなので、ゆっくりと進み、季節の移ろいを楽しめます。

 

竹の浦館

それぞれに人の思い出があり、その懐かしいものにふれた時、鮮やかに甦るものの一つに、子供の時代を過ごした小学校があります。

また、心の中にいまも残る田園風景、心地よい風が渡る広大な松林、ゆったりと流れる川、小径を曲がると、活動写真のような風景が現れる町と、心優しい人々の思いをのせた体験と触れ合い感動と発見の場になる様、心から願ってつくられた拠点の館です。

 

硲伊之助美術館

加賀平野の西端、小高い丘、雑木や竹に囲まれた木造の美術館です。

木組み、木舞い、土壁白漆喰い仕上げ。木製建具、天然の石材によって造られています。

硲伊之助(はざま いのすけ)は1895年に東京で生まれ、17歳でヒューザン会に出品。

第1回、第5回で二科賞を受け、26歳の時から通算約15年間滞欧。

その間、マチスに師事し、絵を見てもらう機会を得、西洋絵画について本格的に学び、油彩画、石版画以外に多色刷木版画を制作しました。

晩年、古九谷に出会い、現在美術館がある場所に窯(九谷吸坂窯)を造り、東京から移住し、九谷焼を制作しました。

1977年同地に没す。
生涯一貫して、色彩の調和を追求しました。
古九谷との出会いとは、それが平治物語絵巻や宗達、光琳、さらに春信、歌麿など、日本美術の色彩絵画の系譜に連なることの発見に他なりません。硲伊之助作品は、古九谷の価値やその現代的意義について語ってくれるとともに、その文脈の中で輝いてきます。


※上記の見所各所の画像及び文章は「加賀市観光情報センター KAGA旅・まちネット」より引用させて頂きました。
くわしくは「加賀市観光情報センター KAGA旅・まちネット」のサイトにてご確認下さい。

KAGA旅・まちネット | 北陸・加賀温泉郷の観光・旅行情報サイト

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