大聖寺商工振興会とは、加賀市大聖寺地区の商工業者を中心とする団体で、現在150店の事業所が加盟しております。

まいどさん!大聖寺【大聖寺商工振興会】

大聖寺のみどころ

商工会〜商工振興会『50年のあゆみ』

■大聖寺町のおいたち

現在の加賀市大聖寺は、加賀百万石の支藩として加賀前田三代藩主「利常」の三男「利治」が、七万石を与えられ大聖寺藩を起こしてより、約230余年間大聖寺藩として続いたが、途中十万石に「高直し」が行なわれ幕末まで栄えた。

維新後「版籍奉還」により、第十四代藩主「前田利鬯」(安政2年〜明治2年)が、大聖寺藩知事となるが、明治4年の「廃藩置県」後、大聖寺県が成立されたが、まもなく金沢県と合併、同5年に石川県に改名され江沼郡大聖寺町となる。

その後昭和33年には周辺町村との合併により、加賀市となり市政が施行され大聖寺が行政の中心地として、その役割を担い続けてはいるが、経済面では複合都市であるが故に加賀市の核的な中心的都市部にはなれない状況で現在に至っている。

■大聖寺の産業

『織物関係』

地場産業の一つである「大聖寺羽二重」は当時全国的な評価をえた織物であった。

又大正から昭和の始めには人絹織物にも着手し、大聖寺町では至る所で織物の音が鳴り響き、織物王国を誇示して県内でも有数の産地であった。

戦後は合成繊維なども手がけ、織物産地としての拡大を計ったが和装離れや生産拠点がコストの安い海外に移行しことによって大聖寺の織物産業が衰退の一途を辿り、現在では、当時の面影を感ずる事が出来ない。

『鉄鋼・機械関係』

昭和の初期にチェーン、スポーク、リムなどの車両関連機械を中心とする機械工業は繊維工業と共に当地の基幹産業となった。

特に大同工業(株)(設立当時、国益チェーンKK)で生産されるチェーン、スポークは国内トップであり、その他コンベア、リム等の生産も盛んに行われた。

大同工業の繁栄がベースとなり(株)江沼チェーン製作所(設立当時江沼精機)(株)月星製作所が誕生し、昭和40年代にはその他の鉄鋼機械関連企業も創業し、現在市内で営業する7割が当時の創業の企業である。

■太平洋戦争勃発

大同工業(株)が創業した昭和7年に上海事変が起きた。

その後日中関係の事変が多発し、我が国は国際社会の中で孤立を深め、ついに昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発した。

開戦に伴い戦時統制立法として先に発令された「国家総動員法」に基づき、生活物資までも統制される様になった。

昭和19年の大都市児童集団疎開が始まる頃になると、家庭用砂糖配給停止となり戦争は長期戦となり国民生活の苦しさは極限に達し、遂に昭和20年には主食の配給も1割減となった。

■第二次世界大戦の終息

昭和20年8月15日天皇の詔勅を以って終戦となったが、それは日本にとっては敗戦であり、日本人にとっては、生涯忘れる事の出来ない日々となった。

しかし『国破れて山河あり、城春にして、草木深し』(希望・杜甫)の先哲の言葉が身に滲みるものであった。

不幸中の幸とも言うべきか? 大聖寺は爆撃の惨状からは免れた。

やがて国家総動員法に基づく、生活必需物資統制令(食管法は残す)など戦時令も次第に解除され、勤勉な国民性は焦土と化した日本を再生するのに立ち上がり、町民の生活状態も次第に良くなってきた。

■「大聖寺商工会」誕生

国民の生活向上に伴い、商工業者も戦前の良き時代を取り戻す為に新しい時代に即応すべき改善を求めると共に、町全体の商工活動を推進する為に組織化された団体を作ろうとの機運が盛り上がり、昭和27年4月に「大聖寺商工会」が再び設立された。

■商工会設立準備会開催

設立総会開催に向けて、その準備会には、当時の三森町長を始め長谷川総務課長、島崎書記、石村産業委員長、橋本、中島、田崎氏の各委員等の方達と一般商工業者より、田中外雄、藤井玉造、表 仙太郎、市原卯之助、藤田岩市、大野捨吉、油谷伊太郎、中村彦一、道端利秋、柿谷政吉、村田 豊、谷口 清、帰山小作氏等13名が、商工会設立委員となり、その後、商工会世話人会を作った。

金沢市商工会議所や石川県商工団体連絡会などの定款・規約等を参考に何回となく細部に亘って協議を重ね、ようやく出来上がった。

又会の細部迄の意思の浸透を画るため評議員制を採用することになり、各地域及び業界より代表を選出して、委嘱することになった。

■商工会発足の胎動

明治、大正、昭和の初期にかけて大聖寺商工会は存在していた事は確かな事実であり、古い商家には当時の宣伝広告も実際にあり、証明出来る広告書類等も残っており、古い売り出し文句も懐かしく、子供心にもかすかな記憶の思い出がある。

しかしそうした頃の事業・組織の足跡を記したものが一切当事務所にも残されておらず、当時事務職を務めておられた故敷中誠之助氏(平成5年迄当会事務長)が会のルーツを少しでも知り、書き記して置く事の重要性を思いつき、調べられた回顧録を紹介する。

  1. 当会のルーツの回顧録の作成を思い立ち、各町内の故老を訪ねる。
    本町に在住、中村宗治氏の手帳に、明治43年頃、大聖寺商工会発足に伴い、本町より大幸円作、油屋太吉、坂井甚五郎、渡辺平三郎、伊東三郎、上田久太郎、木谷次郎七、前田一男、中村与市、山田熊吉、浜本宇平、山田友一、笠松与一、形浦益吉各氏の14名が会員になられたと記録があった。
    これは本町商店会から大聖寺商工会に、会員として入会されたという意味で大聖寺全体のものではないが、明治43年には確実に商工会が実在していたのである。
    年表より推察すると、明治43年には色々な職種の人達の商工会入会の報告があり、又昭和2年八十四銀行倒産の折は、預金者の救済の為に町村長と共に商工会の有志が懸命に救済に当たったと、当時の北國新聞には適切な処置として、最高の賛辞で報道している。
  2. 商工会館(兼江沼物産館)落成
    昭和5年当時の大聖寺商工会々長で、県会議員でもあった山口宗一氏が、有志を説得して広く寄付金を集めて、やっとの思いで『大聖寺商工会館』(兼加賀江沼物産館)が落成した。
    昭和7年の夏には、江沼郡内の物産の振興を願って大聖寺十万石大博覧会が開催され、駅前付近にはアーチを建てて「主催大聖寺商工会」と書き記し盛大に開催された。
    尚、大聖寺商工会館(江沼物産館)落成に際し、建設記念誌が作成され、寄付名簿が記載され現在当会事務所に保存されている。
  3. ふるさとの想い出写真集
    その当時(明治、大正、昭和)の写真は昭和54年11月発刊、『ふるさとの想い出写真集』に数多く掲載されている。商工会主催のスポーツのイベントとして、塩屋海岸で大相撲が開催され当時の写真には、当会の豪華な会旗が風に翻り、相撲大会の一層の盛り立てと、当会の存在感を誇示している。
    又、昭和の初期より第二次世界大戦開戦迄、格好よく実業団野球と称した草野球が開催された。
    当時の草野球には商工会も積極的に支援をして来た。
    其の頃の野球チーム『シルク』の名キャッチャー亀田松男氏が生前、当時の野球に関して、思い出を語られたものを記録したものである。
    (当時のチームは、大同工業、シルク、江沼チェーン、帝国 繊維(現 村田機械(株)敷地に存在)等)

■事務所の変遷

明治、大正、昭和の初期(元年〜6年)頃の事務所の所在は確認できませんが、おそらく町役場近くに存在したものだと思われる。商工会館が昭和7年に出来た後、当然商工会館に事務所が置かれたと思われる。

やがて戦争に突入すると、会そのものの維持も危なく、開戦に依って全ての組合組織が解散状態となった。
戦後再び『大聖寺商工会』が設立(昭和27年)された当時は、本町の角にあった金津屋の家の一部をお借りし『大聖寺商工会事務所』と大きな看板を取り付けて開設している。

その後中央図書館(中央病院別館)へ移り、さらに市制発足に伴い旧町役場の別棟に移転した。

やがて地区会館建設の為に、市役所近くの空事務所に一時移り、漸く新装なった現地区会館2階別室を当会の事務所として現在に至る。

■『商工会』の名称改称

当会の創立当時は「大聖寺商工会」と称したが、市制発足に伴い市内全域の商工業者を対象に加賀市商工会が設立されたことにより、これまで市内にあった各地域の商工会を商工振興会と称することにした。

よって大聖寺商工会も「大聖寺商工振興会」と改称した。

■各種組合の創設

昭和37年商工業者にとって関係の深い『青色申告会・連合会』を創設、初代会長に大野徳太郎氏を推薦した。

又昭和41年8月25日には、『ダイヤスタンプ会』が創設された。

■商工会議所創立

昭和22年7月江沼商工会が設立し、会頭に初代新家熊吉氏が選任されたが、昭和25年にはこれを解体して大聖寺商工会に移行し、次いで各町には商工会が設立される。

昭和33年に市制が施行されると、加賀市商工会連合会を組織したが、昭和35年商工会の組織に関する法律が施行されたため、同法に基づき連合会を改組して、昭和37年に加賀市商工会を設立し、初代会長に大野徳太郎氏を選任、その後の任期満了に伴い、伊藤作松氏、中越良隆氏が会長に就任した。

その後市勢が発展し、経済界の活動も活発となるに伴い商工会議所設立の気運が高まり、昭和40年商工会議所設立発起人会を設け、先進地商工会議所の組織運営等を学び、会議所設立を前提とした人選を行ない、昭和42年商工会総代会において会長新家熊吉氏、外役員を選出し会員も商業関係者の外、新たに工業及び観光業者の加入を勧誘し、地域経済団体としての体制を整えた。

その後昭和42年の臨時総代会にて旧北陸電力の土地建物を購入し、又職員の充実、会員の増強により、通産省の指示する規模に達し幾多の陳情の結果、昭和43年会頭新家熊吉氏外、役員をもって加賀商工会議所が設立となる。

■商工まつり

昭和30年代に入り、戦後の復興も順調に進み、商工業界も次第に活力がめばえ、各地で地域商工業の振興を祈願する祭りが全国的に行われる様になった。

そんな頃市制誕生の祝賀パレードが行われた事を切掛に商工まつりがスタートした。当然最初はパレードが主体であったと思われますが、更に祭りを盛り上げ地元の商工業界のパワーを示すため、色々と思考を凝らしたイベントを取り入れ年々賑わいを増していた。

数年経過し町民にとって「商工まつり」が年中行事として待ち望まれる様になった、昭和37年頃の事業内容を紹介すると、9月中旬に開催され、当日の主なイベントとしては、商工パレード・民謡踊り、そして職域対抗駅伝競争があり、いずれも順位をつけて上位団体には賞を贈った。

商工パレードは組合単位で参加し、トラックにデコレーションを施し街を流した。特に青果組合や漁商組合のアイデアは抜群で沿道の見物客からは、絶賛の評価を得た。

一方踊りは商店街・企業単位でチームを構成し、予め指定した場所で踊りを披露した。

次の会場までは、道路を踊りながら流した。又、職域対抗駅伝競争は、地元企業や団体がチームを編成し大聖寺町内を駆け巡るコースで順位を争った。特に上位で入賞したチームの中には大会前日まで町内を走り回る練習姿が見られた。

そのほかまつりの協賛行事として、加賀江沼中学校軟式野球大会を行い、スポーツを通じ青少年の健全育成をめざした。

こうして祭りもイベントの数が増えたことと、同時に町民の参加も多くなったことによって、経費的な負荷が増大し商工会単独での開催が困難になり、昭和38年からは大聖寺区長会との共催となる。

■一流芸能人の御招待会を開催

昭和30〜40年代は、鍋底景気を経て岩戸景気、そして「いざなぎ景気」と移行した、史上まれな好景気な時代で、当会の中元や年末等の大売出しには、必ずと言ってよい程一流芸能人を招いての招待会を実施するなど、現在の不況下では考えられぬイベントの開催を実施して来たのである。

例えば呼んだ芸能人として、昭和30年代前半には「春日八郎ショー」を大劇(現・金沢信用金庫大聖寺支店及びその周辺を含めた敷地に建つ)にて開催。その後「若原一郎ショー」などからは錦城小学校講堂に於いて賑やかに開催された。

昭和37年度には『島倉千代子ショー』を、翌38年には『橋 幸夫ショー』を開催。

その日から降り始めた雪は数日降りつづき38豪雪となる。

昭和39年度の中元大売出しには、天才歌手と評判の『美空ひばりショー』を謳い文句にイベントを企画したが、ひばりは余りにも人気が高く呼ぶ経費も、当会単独では到底無理で、金沢講演に便乗して当選券50枚を出して、当選者自身が金沢に赴きショーを満喫して頂くことになったが、参加者の評価は最高であった。

昭和43年の年末大売出しには、時代劇俳優で当時人気絶頂の『大川橋蔵ショー』を錦城小学校で開演。爆発的人気で主催者側としても、自画自賛した企画であった。

昭和45年には年末年始の大売出しに『三橋美智也歌謡ショー』を開催。

47年の年末大売出しには、『青江美奈歌謡ショー』を完成したばかりの石川県立体育館で、賑々しく開催した。

49年の『北島三郎歌謡ショー』では、大聖寺青果業者有志が売店を出すなど、いかに多くに人達が歌謡ショーに訪れたかが解る。

現在では想像もつかないイベントであり、当時の世情景気の良さを今更の様に懐かしむのである。

■デスカウントショップのさきがけ

昭和30年頃、松縁寺(鉄砲町)において、関西方面の業者が大御堂を借り、衣料を中心に雑貨等の商品を大安売と宣伝し、低価格で販売したことから、地元商業者にとっては営業妨害の一大事とばかり、早速防衛策として松縁寺参道にて各自の商品を持ちより対抗処置を取った。

又、新町のとぎや(神谷彦三)さんは、松縁寺の門徒であったことから、特別に境内に入り、出張業者に勝るとも劣らぬ低価格で,肩をならべ張り合った。

しかし、所詮浪花商人の商魂には勝てず地元商業者にとって影響が大きいことから、早速檀家を先頭に立てて、松縁寺にお寺を貸さない様抗議を申し入れたことから、その後1〜2年は町内にある空き地にテントを張って行われたが、屋外での販売は、天候や商品管理面での問題点も多く、次の年からは出張してこなくなった。

まさしく県外デスカウントショップのさきがけである。

■抽選会から豪華温泉招待会へ

50年代に入り豪華景品が当たる抽選会が実施され、当初は購買者に人気もあったが、各商店会ごとに割り当てた負担経費が次第に重荷になると共に、購買者にとっても補助券を規定枚数を集める面倒臭さ厄介さからむしろ値引を望む様になり、抽選会も年と共に下火となってしまった実状を踏まえ、常任理事会に於いて変わるべき事業としていくつかの腹案を検討した結果、温泉御招待会にと鉾先を変えた。

その最初のイベントとして昭和59年の大売出しには、山代温泉、ホテル『富士屋』に60名を招待、続いて60年には、片山津温泉ホテル『向陽』に80名を招待し、振興会の意気込み盛んな処を示した。

61年山中温泉ホテル『紫水園』に70名を招待し、大いなる成果を期待したが、結果は今一つの感が否めなかった。

何事にもマンネリ化には勝てず、昭和63年にも年始年末の大売出しのメインとして、満冊シール22冊で山代温泉『ゆのくに白雲閣』に69名を招待したが、『個人で適当な日に行く方式』でしたが、余り好評ではなかった。

平成元年には、山中温泉『百峰閣』のイベントを再び企画したが、温泉招待形式も負担経費の重荷と加盟店各位の熱意も冷め、実情に添わなくなり自然と敬遠され、温泉招待会もこの年で終止符を打つ事となった。

この年代より振興会も、個人的対応から地域の活性化を主眼に置いた対応に方向転換し、消費者をはじめとし、地域住民総参加の出来るイベントを企画し、実施に務めることにした。

■『振興会商工ニュース』発刊

地元商工業界の情報や、本会の事業計画及び事業報告を紹介することによって会の存在感と、会員相互の意思の疎通をより一層深めるため、「商工ニュース」の発刊を計画し、昭和50年6月より「商工ニュース第1号」が発刊された。

平成9年11月20日には、発刊第50号を記念して、記念号らしくページ数も増やし、会長始め副会長、各部長、常任理事からの寄稿をもとに多彩な紙面構成で発刊されている。

本誌の編纂に当たり、もしこの「商工ニュース」が、創設時より発刊されていたら、もっと苦労なく編纂出来たことと改めて記録資料の大切さを認識させられた。

又『商工ニュース』の内容をより明確に理解出来る様に掲げた記事、企画イベントには必ず資料としての関係写真を撮り、当会事務所に十数冊が保存されている。

■会員並びに従業員研修旅行

当会が設立され、会の運営も軌道に乗り始めた頃、会員と会員が雇用する従業員との研修と慰安を兼ねた旅行が、福利厚生部の年間定例事業として行われ現在まで続いている。

特に実施当初の頃は珍しさも加わり好評で参加者も多くバス2台を貸し切って行われた事もある。近年はバス1台分の定員に達し次第締め切りとし、実施しているが、参加された皆さんからは好評を頂いている。

...その要因は幾つか考えられるが、特筆すべきは歴代担当部長がなかなかの接待上手な方々ばかりが、その任務についているからだと思われる。...現在は勿論

■21推進委員会設置

昭和62年(1987年)に来るべき21世紀を14余年後に控え、著しい社会変化を適確に捉え新世紀に即応すべき、地域活性化の新たなビジョンつくりに着手する為、若手を中心に21推進委員会が設置された。

委員会では、当時地元注視の課題として(株)江沼チェン製作所が移転したことによる跡地の有効利用と、市祭として例年行われてきた「十万石かがし祭り」の解散に伴い「十万石まつり」を再び地元大聖寺主催で実施するか否可、と言う両問題について取り組むこととし、委員会としての方向性をまとめた。

  1. 江沼チェン跡地問題については、用地を市に買上げ頂き、そこに長い歴史のなかで先人達が残された遺産を展示し「大聖寺文化」を表現する施設を建設して周辺の山の下寺院群と合せ大聖寺の文化ゾーンを構築して欲しいと提言する。
  2. お祭り問題については、地元主要産業の活力低下や、社会変化による道路整備の遅れと人口の減少は商業界にも大きな影響を与え、町の中に以前の様な活力が見られません。
    こうした危機的状況を打破するためには商業者と町民が一体と成り、一つのものを町全体で作り上げ、成し遂げるという気風が芽生えることが大変重要である。
    そのためには祭りを通し、お互いふれあいを持ち、やがて心が通い合うことによって、共同体意識と成し遂げようとする連帯感が生まれるものと確信し、翌年(1989年)は初代藩主前田利治公入府より、350年目に当たることから、その間に先人達が残された遺業や遺産を評価し、学び取ることが今後の町興しに繋がることと理解し、「十万石まつり・大聖寺藩350年祭」を町民総参加のもと盛大に開催することにした。

    メンバーは下記の通りである
    中嶋 克司・荒物屋正幸・河村 弘幸・銭谷 隆詞・中越 康夫・山本外美三(市議)・中嶋 肇・高田 大樹・高村 忠孝・杉山 一夫・ 大和 謙市・亀田 松俊・下口 進(市議)・谷本 吉幸・小中出佳津良
    当委員会で取り組んだ両課題については、現在(株)江沼チェン製作所跡地には「古九谷の杜」公園が出来、隣接し県立九谷焼美術館がオープンしている。

再び地元大聖寺町民によって主催した「十万石まつり大聖寺藩350年祭」を皮切りに、現在十万石まつりが大聖寺の統一的な祭りとして今日まで続いている。

■「ふるさと育創91′〜94′」

これまで、商業界の活性化をねらい中元・年末の大売出しを実施してきたが、昭和40年代の大型店進出以降、次第に陰りを見せ始め、近年お客様・加盟店双方ともあまり歓迎されず、商店街への購買人口引き戻しにも、ほとんど繋がらなくなり、様々な面で大型店との格差が拡大する一方であった。

こうした現状を踏まえ商店街に賑わいを取り戻し、活力と潤いを図る事業の創造を求めて、会員相互が考究し検討を重ねていった。

そんな中近年の買物実態は社会の豊かさを反映し画一的な物資調達から、レジャー感覚的なスタイルに変化し、売場もよりグレードの高い環境が求められる様になり、これら消費者ニーズの変化に即応する工夫が、これからの事業に盛り込むことが必要と判断された。

こうした様々な検討の中から「自然とのふれあい」を通じ、「歴史と伝統の城下町大聖寺の再発見」に努めることが「町おこし」に繋がり、しいては商店街の賑わいに創出に繋がるとの確信を持ち事業のタイトルもこの趣旨に沿い、商業フエスティバル「ふるさと育創91〜94」と名付け、会場も水守神社境内一円と「ふるさとの川モデル事業」(激甚災害対策特別事業)で完成した、河川敷石舞台を会場にイベントを開催した。

特にこの事業を県の支援対策事業となる様、当時市議会議員であった山本外美三氏が大幸県議に働きかけをし、その努力と加賀商工会議所の力添えもあって、この事業が中小商業活性化基金の助成対象事業である「特定継続事業」(郷土の文化、芸能を主体に構成事業)に決定され、三年間交付、頂けることになった。

初年度は支援対象事業のモデル期間として実施し、次年度より支援対象事業とし三年間継続して実施することが出来、ますます事業推進に弾みがついた。

特に最終年度の94年にはダイヤスタンプ会のシールからカードに切り替えを機会に完成したばかりの「古九谷の杜」広場に会場を移し、ダイヤスタンプ会も協賛し、「ふるさと育創94・ダイヤカードキララ切り替え発表会」として開催した。

当日は快晴に恵まれたことと、完成した「古九谷の杜」会場を一目見たいという人々も多く、過去3回の実施に比べ、来場者は多く、振興会の存在と活性化に対する意気込みを示すことが出来、事業も盛会裡に終了した。

■加賀市共通商品券の発行

相次ぐ大型店の出店により地元商業者が厳しい状況に直面する中、大型店舗対策の一環として市内一円を抱合しての「共通商品券」発行を、より早期に具体化するため県・市の支援を頂き、商工会議所の主導のもと平成11年12月「加賀市商業振興事業協同組合」が誕生し同年12月6日に「加賀市共通商品券」の発行がスタートした。

共通商品券は大型店舗対策として、会員相互が連携をもち互いの情報の提供や、サービスの向上に務め、購買者の流失を少しでも食い止めることを目的として発行に至ったのである。

■「生き粋 宵の市」開催

平成12年8月14日南町、元大聖寺警察署跡地を利用し、「生き粋宵の市」のタイトルを掲げイベントを開催。

このイベントの開催目的は発行間もない「共通商品券」の宣伝・普及を図ることと、大聖寺にとって中心的位置の警察署跡地を今後有効利用する事が大聖寺の活性化に繋がることを会員はもとより、広く町民の皆様にも理解頂くことを目的として開催しました。

特に当日市長にも参加頂いたのは、大聖寺町民と行政とが一体となって、警察跡地の有効利用を考える出発点となることを願ってのことである。

■大規模小売店舗法撤廃

これまで大規模小売店舗法により、同地域内で大型店舗も零細小売店舗も共に共存共栄が図られたが、対米不均衡貿易により、米国から規制緩和を強く求められた日本は、平成6年(1994年)に大規模小売店舗法の大幅運用緩和(事実上の撤廃)によって、強者が弱者を淘汰する弱肉強食の時代へと突入した。

当地に於いても平成8年に平和堂を基店舗とする「アビオシティー」がオープン、翌平成9年には「ジャスコ加賀の里」(現イオン)がオープンし、以前より営業を行っている「ユニー加賀店」との3大型店による熾烈な競争が繰り広げられた。

結果、逸早く先駆出店のユニー加賀店が撤退に至った。

従来の大規模小売店舗法では、人口7万弱の当地では、売り場面積が3.000坪を越えるような店舗は1店舗程度と規制されていたが、法的制約が取り払われたことによって、地元零細店舗との競争は勿論、大型店同志の戦いも激化した。

こうした状況下で更に市内桑原地区に大型ディスカウント店「プラント4」が出店を計画している様であるが、もしも「プラント4」が出店すれば地域商店街や商業界の破壊のみにとどまらず、加賀市の「まち」づくりそのものの崩壊に繋がると言っても過言ではありません。

「まち」は一旦壊れると容易に再建出来ない大切な皆んなの財産です。

これ以上大型店の出店を安易に許さず、「まちの崩壊」を阻止するため、平成13年9月に加賀商工会議所内に市内関係団体及び会議所部会による、大型店進出反対期成同盟会を発足させた。

大型店進出反対期成同盟会 名簿
所属組織 代表者
◎加賀市商工振興会連合会 中嶋 克司
大聖寺商工振興会 中嶋 克司
山代温泉商工振興会 吉田 孝一
片山津商工振興会 川渕  剛
動橋商工振興会 橋川 正一
加賀中央商工振興会 坂下 省三
分校商工振興会 清水 英一
三木地区商工振興会 三瀬  博
塩屋地区商工振興会 東  松夫
南郷地区商工振興会 丸山 隆一
橋立商工振興会 針谷 健造
三谷商工振興会 谷口 政幸
加賀市商店連盟 吉本 征洋
加賀市商業振興事業(協) 吉本 征洋
加賀商工会議所
〃   サービス業部会 山下 岩雄
〃   食品業部会 吉田 幸雄
〃   小売商業部会 西山 静司
山代温泉商店連盟 桑原 洋一
ダイヤスタンプ会 山本外美三
ゆーでるカード加盟店会 岡田  豊
キングズカード加盟店会 荒栄  豊
加賀江沼青果食品商業(協) 大野外志男
(協)加賀ターミナルセンター 山下  隆

◎は会長

■中心地の移り変わり

昭和30年代中頃までは、鍛冶町附近の商店街を中心に東西南北各商店街が続き、近在の人々の勤めや買い物による往来で賑わっていたが、聖南通り(305号線)、中央通り(橋立港線)が開通したことや、次第に車社会へと変化したことによって、車社会に対応できる大通りへと商店も移行した。

またそれまで京町にあった市庁舎(旧大聖寺役場)も南町地内の農地を埋め立て庁舎が新築されたことによって、町の中心地的役割も一気に南東方向へ移動し始め、周辺農地も埋められた事によって、昭和47年「ミリオンプラザ・ユニー加賀店」がオープンすると、大聖寺の中心市街地は、完全に南町・東町方面に移った。

■今日(平成14年)の現状を踏まえ、あらたな時代へ

長引く景気低迷の日本経済にあって、バブル経済崩壊により多くの債務を抱えた地元金融機関の破綻は、地元経済界にも大きな衝撃を与え、いまだにその影響が残っている。

そうしたなか商業界にあっても郊外に相次ぐ大型店出店により、「ユニー加賀店」は撤退、地元商店も倒産や廃業で年々店舗は減少し、町の中には以前の様な商店街といえる所は無く成り、それぞれの町々に空き店舗を伴いながら個店として厳しいなか生き残っている。

特に昭和30年代まで栄えた町中の商店街地域は道路が車社会に対応できるだけの幅員がなく、現在では繁栄した頃の面影は全く感じられず、住宅街化した状態である。

こうした状況のなか、しいて購買者が集まり多少の賑わいを持てている場所は、佑企・マルエー・Vマートといったスーパーマーケットを中心とした界隈の3地域である。

しかし、それらの集客地にしても、地元民と近郷近在の購買者に限られていて「ユニー加賀店」営業当時程、広範囲に亘る外部からの集客力はなく、町全体に以前の様な活力は見られません。

核となる大型店の撤退や店舗の急激な減少は地元住民にも日常生活に大きな影響を与えている。

これまで大聖寺町内で日常生活に必要な物資は殆ど全て調達できたはずであったが、近年「靴屋」は一軒もなく靴を買うにも郊外まで出向かなければならない不便さがある。今後、他の業種に於いても更なる事態も起こりうる事が予想されるのである。

このような現状を引き起こした原因は、大型店や広域専門店の、利益のみを優先した強引な出店、身勝手な撤退によって、これまで行政と地元業者とで長年に亘り築き上げたライフスタイルを一夜にして破壊し、住民生活を窮地に陥れる様なものであり、高齢化が進む当地にとっては、大変深刻な難題であるが、今後もこうした事態が起こらない保障は無く、第2波、第3波の大型店出店・撤退が繰り返される恐れがある。この様な厳しい現状と先行き多くの不安材料を抱える「まち」が現在の大聖寺である。

今回大聖寺商工振興会も50周年目を迎え、直面する厳しい経済環境や、混乱し低迷する商業環境の難局を乗り越え、新しい時代の商業都市づくりを推進するには、利益一極主義の大型店舗に翻弄されない「まち」づくりの必要性が求められている。

人口12.000人弱の大聖寺、既存のスーパーマーケットを中心とした3地区の集客地が有り、現段階ではこれ以上の集客地の増加は計算上成り立たないが、今後暫く淘汰が繰り返されると思う小売業界も、一定の秩序が生まれた時、一区域の通りを活用し地元業者を主体とした専門店を集結させた、こじんまりとした商店街を形成することが出来れば、大型店の動向によって左右されない「まち」づくりとなる。

今後地元商業者で知恵を絞り、そうしたものが将来実現出来る様努力したいと思うが、正直言って、その頃には今苦しいなか頑張っている地元業者が、どれだけ生き残っているか疑問だ?

大聖寺商工振興会 会則

第1章 名称及び事務所
第1条 本会は大聖寺商工振興会と称し、事務所を加賀市大聖寺京町1番地に置く

第2章 目的及び事業
第2条 目的
会員相互の親睦を保ち其の他諸事業及び全町的な活動に対し、関係諸団体との連携をはかると共に、21世紀に向かって活性化を推進する。
第3条 事業
1.会員相互の親睦を図り商工業の道徳の昂揚に務める。
2.全町的な関係諸団体の活動に協力する。
3.会員及び従業員、家族の福利厚生に関する事業。
4.その他必要な事業。

第3章 会員
第4条 本会は大聖寺地区の商工業者で第2条の目的に賛同する者を以て会員とする。
第5条 会員には普通会員の外、特別会員及び賛助会員をおく事が出来る。但し特別会員及び賛助会員の選定基準は内規を以って定める。

第4章 役員の選出及び任期
第6条 本会に次の役員をおく。
会長 1名、副会長 4名、会計 1名、庶務 1名、監事 2名、
常任理事及び理事 若干名
第7条 役員の任期は各2年とし、再任を妨げない。又補欠の為選任された役員の任期は前任者の
残任期間とする。
第8条 役員の選出方法は内規を以って定める。
第9条 役員の任務
1.会長は本会を代表し、会務一切を処理する。
2.副会長は会長を補佐し、会長事故ある時はその任務を代行する。
3.会計は本会の会計事務を司る。
4.庶務は会長の指示に基き、会務を処理する。
5.監事は会計帳簿及び関係書類を監査する外、会務に協力する。
6.常任理事は本会の会務を審議し執行する。
7.理事は会務の執行に協力する。
第10条 本会に顧問・相談役及び参与をおく事が出来る。

第5章 会議
第11条 本会の会議は総会及び役員会とする。
第12条 総会は通常総会と臨時総会とし会長が招集する。
1.通常総会は毎年事業年度終了後二ヶ月以内に開く。
2.臨時総会は常任理事会が必要と認めた場合招集する。
3.総会の招集は期日の7日前までに会員に対し会議の日時・場所及び議件を明記した書類を発送する。
4.総会は会員の過半数(委任状を含む)を以って成立し、議事はその出席者の過半数で決定する。可否同数のときは議長が決定する。
5.総会の議長は出席した会員の中から選出する。
6.総会及び役員会の議事録は議長が之に署名する。
第13条 役員会は常任理事会及び理事会とし、会長が招集する。
1.役員会の招集は開催日の三日前までに役員に対し日時・場所を明記した書類を発送する。
2.役員会の議長は、会長があたる。
3.常任理事会は、会長・副会長・会計・庶務・監事・部長・副部長を以って構成し、毎月定
例会を開き運営諸行事を審議する。
4.理事会は必要に応じて開く。
5.役員には報酬を支給しないが、必要に応じて実費を支弁する。但し、庶務は除く。

第6章 会計
第14条 本会の経費は会費及びその他の収入を以って充てる。
第15条 会費の額は内規を以って定める。会費の納入は自動振替及びその他の方法に依る。
第16条 本会の資産は第2章の目的以外に使用してはならない。
1.本会は事業年度の剰余金の10%以上を特別積立てる事が出来る。
2.損失金の補填は特別積立金を以って充当する。
第17条 本会の事業年度は4月1日に始まり翌年3月31日に終る。

第7章 職員
第18条 本会に若干の職員をおき、その任免は会長が常任理事会の議決を得て行う。
第19条 職員の業務は、本会の就業規則に依る。

第8章 慶弔
第20条 慶弔に関しては、本会の慶弔規定に依る。

第9章 改正
第21条 本会則は総会の議決を得て改正する事が出来る。

附則
この会則は昭和60年5月23日より施行する。
 〃 は昭和63年5月18日 一部改正。
 〃 は平成3年5月17日 一部改正。

大聖寺商工振興会 内規

この内規は大聖寺商工振興会会則に基き定める。

第1章 役員の選出
第1条 理事は各商店会又は各地区から選出するものとし、通常会員5名に対し1名程度とする。
尚会長が適任と認めた場合常任理事会に図り理事に委嘱する事が出来る。
第2条 会長は理事の中から選挙又は互選に依り選出する。
但し、選出方法は前常任理事会の認めた選考委員会があたる。
第3条 副会長・会計・庶務・監事及び部長は会長が理事の中から任命する。
副部長及び部員は部長が会員の中から委嘱する。

第2章 特別会員等の選定基準
第4条
1.顧問......市長 商工会議所会頭
2.常任相談役......前振興会会長 県議(地区内)
3.相談役......元振興会会長 市議(地区内)
4.参与......元振興会副会長 永年役員経験者
5.賛助会員......本会の趣旨に賛同し其の運営に協力する商工企業者
(イ)一般賛助会員...地区内にて事業を営む有力企業
(ロ)特別賛助会員...地区内外を問わず事業を営む大手企業及び金融関係

第3章 部会
第5条 部会構成について
本会に次の部会を置く。
総務部・組織渉外部・事業部・福利厚生部・広報部・産業活性化部
第6条 各部会の職務

--総務部--
1.会員相互の連絡に関する事項
2.会議に提出する書類等の作成配布
3.会員及び役員名簿の作成配布
4.庶務会費徴収に関する事項
5.会則諸規定等に関する事項
6.財産管理に関する事項

--組織渉外部--
1.渉外関係に対する事項
2.会員の増強を計る

--事業部--
1.商工業者の活性を計るイベントの立案及び実行
2.商工業者に関して有力企業場及び商店街等の研修視察
3.大型店対策に関する事項

--福利厚生部--
1.会員相互の親睦に関する事項
2.優良会員及び従業員表彰に関する事項
3.慶弔に関する事項......慶弔規定参照
4.災害・見舞に関する事項......慶弔規定参照

--広報部--
1.振興会ニュースの作成発刊
2.広報活動

--産業活性化部--
1.21世紀に向かって新しい感覚に依り、商工業の振興と活性化を推進する
2.関係団体との協賛事業について

第4章 会費
第7条 会費負担額は次の通り定める。(月額)1口・・・500円

  1. 会長・・・7,500円 15口
  2. 副会長・・・4,000円 8口
  3. 会計・・・3,000円 6口
  4. 庶務・・・3,000円 6口
  5. 監事・・・3,000円 6口
  6. 部長・・・2,500円 5口
  7. 副部長・・・2,000円 4口
  8. 理事・・・1,500円 3口
  9. 一般会員・・・500円 1口

※内規は常任理事会に於いて定め、其の他は会則に準ずる。

■慶弔規定
第1条 本会の会員が死亡の時、次の依り弔慰金を贈る。

  1. 普通会員及び協賛会員が死亡しとき
    5,000円 その家族の場合弔電のみ
  2. 理事会員死亡のとき
    10,000円 その家族の場合弔電のみ
  3. 常任理事及び特別会員が死亡のとき
    10,000円と供花 家族の場合5,000円と供花
  4. 会計及び監事が死亡のとき
    15,000円と供花 家族の場合5,000円と供花
  5. 副会長が死亡のとき
    20,000円と供花 家族の場合5,000円と供花
  6. 会長が死亡のとき
    50,000円と供花 家族の場合5,000円と供花
  7. 顧問・相談役が死亡のとき
    10,000円と供花 家族の場合5,000円と供花
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